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バックパッカーの旅Ⅰ(東京~アテネ)

バックパッカーの旅Ⅰ(東京~アテネ)

白い巨体、現る

                      ≪十月十七日≫   ―爾―

   後ろを振り向くと、ギリシャの若いアーミー達が、いつの間にか後方 に十数人、軍服を身にまとって立っている。
 船を待っているのだろう。
 ギリシャ本土へ向かうのだ。
 雨は少し雨脚を弱くしているように見える。
 どのくらい降り続いたのか。

   雨脚が弱くなってきたところで、待ちきれなくなった人達が、カフェ の外へ出る。
 俺もやっと重い腰を上げ、カフェを出て、公衆便所に立ち寄り、通りをぶ らつく事にした。
 ビスケットを買ったり、スブラキを食べたり、タバコを買ってきた。
 そして、元いた椅子に座りなおす。

    ”もうどのくらい待ったのか、そしてこの後、どの位待つのだろう か。”

   こうした情景を、暗いエーゲ海の海に立ち、こちらを眺められたら、 さぞ滑稽な事だろう。
 まるで、船を待っている我々が、舞台に立って役者を演じている・・・そ んな情景を見るに違いない。
 きっとこれは愉快に違いない。

                       *

   時計を見ると、午後十時をさしている。
 時計から目を海に移すと、見えた・・見えた!
 みんなが立ち上がる。
 数人が椅子から立ち上がり、外へ出る。
 待ちに待った、白い巨体が港に向かってくる。
 やっと姿を見せた。

   どんどん大きくなってくる。
 白い巨体だ。
 港が船でいっぱいになる。
 前進をやめると、船はゆっくりと旋回をはじめ、大きなお尻をこちらに向 け始めた。
 ゆっくりと、反転している。

   反転がとまると、大きな口が開き始めた。
 太いロープが岸に向かって投げられる。
 今まで静寂だった港に活気がでて来た。
 雨はいつの間にか止んでいた。
 大きな音をたてて、口が開ききり、車が人が吐き出されてくる。
 ・・・・・・・・・。
 そして、飲み込まれていく。
 そして、俺も飲み込まれていく。

   船体には、―ΣΑПΦΩ-と書かれている。
 ギリシャ文字だ。
 船内に入る。
 265DR(≒2,120円)の大部屋は、宇高連絡線と同じような座席。
 進行方向、左手の窓際に席を確保する。
 座ってみる。
 リクライニングだ。
 これは良い。
 ゆっくりと眠れそうだ。
 二倍の料金を出せば、ベッド付の個室が与えられると言う。
 彼女はきっと個室を確保したに違いない。
 俺にはそんな部屋は必要ないだろう。

                     *

   午後十一時十五分。
   出航。
 今なら、待つことの辛抱をしてきた、あのCHIOS島のカフェと言う舞台が見 えることだろう。
 あの滑稽だろうなと思っていた、CHIOS劇場の舞台がはっきりと見えるに違 いない。
 しかし、もうそこには、演じていた私の姿も、軍服の姿も老人達でさえ、 姿を消しているに違いない。
 待つ人のいない舞台がそこにあるだけ。
 舞台を演じてきた本人達が、この船に乗り込んできたのだから。

   いや?
 ひょっとして、あの老人達が、幽霊達がまだ舞台の上で彷徨っているかも 知れない。
 そして、船の中にいるはずの私でさえ、ひょっとして、いつものように両 肘をテーブルについて、乗り込んでいるはずの白い船をジッと見ているか もしれないのだ。
 舞台に輝くライトの下で笑っているかも知れない。
 まるで・・・幽霊のように。

   エンジンの響きと船体を揺らす振動が、ほんの少し体に伝わってく  る。
 大きな船が、今まさにエーゲ海に浮かんでいる事を忘れさせてくれる。
 船がゆっくりと、滑り出した。
 青い海も、空も、たくさんの島影もすべて闇の中。
 薄っすらと、島の姿が見えてくる。
 今まで滞在していた島が、ゆっくりと離れていく。

   リクライニング・シートをゆっくりと倒していく。
 もう待つことはないのだ。
 眠れば良い。
 ただ、眠れば良い。
 そして、今度目覚めたときは、確実に目的地ピレウスが眼下に入ってくる はずだから。
 眠れば良い。
 そう、目を閉じれば良い。
 もう・・・・待つことはない。
 幽霊に遭うこともないだろう。


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